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Tari Ito & Swing MASA


by RubberTit

Rebber Tit by Tari Ito

Rebber Tit by Tari Ito

 1996年の作品の中でカミングアウトした「自画像」、'98年の家族との関係をあつかった「Me Being Me」、2001年の「恐れはどこにある」、'04年の「虹色の人々」と名付けたそれらのパフォーマンス作品は、社会に存在するホモフォビアを言及したものだ。90年代に入ってフェミニストたちがセクシュアリティに関心を寄せた流れの中で、私のパフォーマンスは反響を得、かなりの回数の公演を行なうことが出来た。その経緯を通して、私は自分をアイデンティファイする道筋を探って来れたと思っている。
 長年のフェミニストたちの努力の上に、私は私を重ねあわせて、レズビアンとして生きる勇気をもらってきたと認識している。
  しかし、現実的生活において、自分を鼓舞してもままならないことばかりであることに直面し続けているのには変わりがない。とりわけ、レズビアンは強固な日本社会のセクシズムとの闘いも続けなければならないのだ。
 9.11以降事態はフェミニズムへのバックラッシュに向かわせ、最近ではジェンダーバッシングにともない、セクシュアルマイノリティへの風当たりも強くなっている。政府はナショナリズムを擁護する方向へ舵をきった。
日本の伝統への回帰を促し、愛国心を強調するプロパガンダが横行している。そこに現れる言葉を聞く度に人権が奪われ、自分で自己を決定することを許されなかった記憶が呼び起こされる。最近、天皇家お世継ぎ問題にみられた皇室の女性に対する人権無視の対応は、日本において人権についてまともに語られることはないと思わせるものであった。
 また、パフォーマンスで使用している映像に出てくる石原東京都知事と記者との対話に
ホモフォビアによる殺人事件のことが出てくる。ところが、その事件から6年を経て、最近ふたたびゲイの人が同じ公園で襲われるという事件が起きた。「ゲイなら警察に訴えないだろうから、やってしまえと思った」と犯罪を犯した少年は証言したそうだ。
 私はこのような状況の中で今、「恐れはどこにある2006年度版」をどのように表現するのかが問われている。
 レズビアンであることの負なる状況を訴えても、あるいは一般の異性愛者たちに事実はこうなんだと訴えても、結局は無視される感覚から脱却できない。ならば、ポジティブに
おおらかに巨大なrubberのオッパイとたわむれることを選ぶ。思い切り私のセクシャルファンタジーの夢を追うことを選ぶ。オッパイという危険な普遍性を帯びた身体の一部を
持ち出すことにした。オッパイがだれもがその個人的な思いをぶつける事が出来るいたって政治的な物であることを自覚して。
 パフォーマンスに使われる映像で、尾辻さんが日本の差別は「問題にふれないし、さわらない」という態度によって増長されていると言っている。その感覚を寛容ととらえるのか、それが日本人の文化なのだからと言ってあきらめるのか、私はどちらの考えとも組みすることはしない。
by RubberTit | 2007-02-16 05:37 | Rubber Tit /Japanese